ゴツッ。
「いたっ!」
朝の目覚めは最悪だった。
朦朧とした意識の中で布団から脱皮したレオはいつもどおりに起き上がって洗面所に行こうとしたけれど、この場所のことをすっかり忘れていた。
狭い押入れの中で丸くなって寝ていたので、立つほどの高さがここに無かった。
そのため、勢いよく頭をぶつけてしまったのであった。
痛みを和らげるために頭を覆ってレオはその場にうずくまった。
『…あんた、そこに寝てたでヤンスか』
真っ暗だった視界に一本の光の線が引かれる。
暗さの原因だった密封の空間に明かりが入ってきたのだ。
押入れの扉を開き顔を覗かしたのはタンポポであり、タンポポは丸くなったレオを冷や汗垂らして眺めている。
そのときにレオもここが押入れの中だと思い出して、また深く頭を下げこんだ。
「…しまった…僕は押入れで寝てたんだった…」
『アタイはてっきりランが押入れかと思ってたでヤンス』
「先にベッドで寝られてしまったんだよ」
『…なるほど、夜早く寝たから今朝は早かったでヤンスね』
一人で納得しだすタンポポは手を打ってその場に柔らかな音を奏でた。
そんなタンポポを見て、レオは首をかしげる。
タンポポの言う意味が分からなかったからだ。
「ん?『今朝は早かった』ってどういうこと?」
訊ねるとタンポポがぬいぐるみのくせに汗をぬぐって、表情を拭き消した。
それは笑顔に変わる。
『ランが朝早くからいろいろしてくれてるでヤンスよ』
予想外の返答だったので、思わずレオは頭を上げて、その勢いにまた頭をぶつけてしまっていた。
けれどもタンポポは、その哀れな姿にあえて何も言わないでおく。
レオも頭を抑えながらも冷静心を保っている。
「幽霊が朝からいろいろしてるって意味が分からないよ」
『それならレオもキッチンに来てみるでヤンス』
「…はあ?」
タンポポの言っている意味が分からなかったレオ。
しかし、押入れの扉を全開に開いたタンポポにより暗闇から引っ張り出されることになる。
タンポポに「早く来るでヤンス」と煽られ、レオは頭を擦りながら部屋から出て行った。
部屋を抜き出し階段を降り、キッチンにやってくると意外な光景を目の当たりにした。
そのため、閉じかけていたまぶたもここで完全に冴える。
レオとタンポポの目の前を、エプロン姿のランが過ぎった。
「よ!今日は早起きだったなレオ」
横切っていったランを目線で追うレオの耳にイナゴの明るい声が入ってきた。
しかしレオはイナゴを相手にせず、ランに目を奪われている。
そのためタンポポがかわりに答えていた。
『珍しい光景を見せてあげようと思ってアタイが連れてきたでヤンス』
「ああ。確かに珍しい光景だよな。おかげでレオがオレを無視してランに見とれてるって感じだし」
『まあ、朝っぱらからあんたの声なんか聞きたくないでヤンスね』
「えっ、それ本気?それとも冗談?そしてその意見はダンちゃんの意見?」
『さー?それはどうでヤンスかねえー』
「曖昧な答え返さないでくれよ!微妙にショックだから!」
キッチンのテーブルから身を乗り出して叫びだしたイナゴは、そのまま大きく息をついて頭を掻きだした。
そんなイナゴの手元には食器が置いてある。
大小問わない食器がいくつもおいてあり、その組合せはイスが入っているテーブルの部分に設けてあった。
食器の中身は空だけれど、キッチン内の匂いは十分に良い。
厨房から良い香りが漂っているのだ。
エプロン姿のランはそこに立っていた。
タンポポがイナゴの元へ飛んでいく背景でレオはランの背後まで自然と歩いていった。
「あ、レオ。気をつけろよ」
しかし、歩んでいるレオをイナゴが止めに入った。
そのためレオは上げかけた右足を、そのまま下ろした。
立ち止まったレオに向けてイナゴが言う。
「料理の支度をしている奴の背後に回るのは危険だ」
何だか意味ありげな忠告である。
そしてそれにはやはり意味が含んであった。
「不意に背後に立つと、尻をフライパンで叩かれるぞ」
そういうとイナゴは尻を押さえて、食器が置いていないスペースに頭を突っ込んだ。
この様子からイナゴは、興味を持ってランの背後に立ったところをフライパンで叩かれたようだ。もちろん尻を、である。
だからか、行動派のイナゴが大人しくイスに座っているなんて珍しいと思ったけれど、そういう裏があったようである。
さすがのレオもフライパンをぶち込まれることを恐れ、いそいそとランから離れていった。
そして食器がおいてあるテーブルに手をかけた。
厨房から聞こえるじゅーじゅーと物が焼ける薫り、素晴らしく芳ばしい。
「なるほどね。タンポポが言ってたことってこれだったわけだね」
良い香りを堪能しながら、レオは空中を飛んでいるタンポポに目線を移した。
タンポポはうんうんと頷いている。
『そうでヤンス。ランはアタイらよりも早く起きてずっと家事をしてたみたいでヤンス』
「え!朝起きてからずっと家事をしてたの?」
「いつもはオレがしてたんだけど今度からランがしてくれるみたいだ。助かったよ」
「おい、それだったらお前の仕事が無くなったじゃないか」
『家事』はいつもイナゴが進んでしていたのだが、今日から元々家の主であるランがしてくれるようだ。
そういうことでイナゴはもう家事をしなくていいようになったけれど、これではイナゴの仕事が無くなってしまったではないか。とレオは言う。
イナゴは「おいおい」と手を煽ってレオに注意する。
「オレはヤクルーターっていう素晴らしい仕事を持ってんだぞ。まあ確かに家事も好きだったけど、ランに譲ってやったんだ」
「お前、本当にヤクルーターって仕事してるの?なんだか毎日ぐーたら遊んでる気が…」
「何言ってんだ。仕事の成果がここにあるじゃないか」
そしてイナゴはランを指差した。
タンポポも頷く。
『そうでヤンスよ。迷子になってたランをアタイらが助けてやったでヤンスよ』
「いや、偶然にも幽霊の家がここだったってことであって。全てが偶然だったじゃないか」
「まあまあ、今度はランの彼女を探すって仕事も残ってんだ。だからオレらにはまだまだ活躍できる余地がある」
「それが解決すればお前らは何もすることがなくなって自然と消えるということで理解してもいい?」
「ああ。ってダメだ!この物語からオレらを消さないで!」
「ちっ」
『ごくふつーに舌打ちされたでヤンス?!』
こうやってイナゴたちがああだこうだともめ合っているとき、厨房から振り返るランの姿が背景に映った。
それに気づいてレオも目を向ける。
何か用事でもあるのかなって思っていたけれどそれは甘い考えだった。
突然、ランが何かを投げつけてきたのだ。
元黒猫なだけあって、レオは反射神経が良かった。すぐに突っ伏して"それ"を避ける。
対してイナゴはタンポポと話をしていたために対応するのが遅かった。
そのため攻撃を喰らってしまったのであった。
「たまご!」
イナゴの悲鳴は額に当たってきた物体を忠実に口走っていた。
そう、たまごが飛んできたのである。
「てめえら、声を静めろよ。料理に集中できねえだろ」
イナゴがノックダウンしているころ、厨房からランが叫んでいた。
つまり、ランは騒がしかったこの場を沈めるためにたまごを投げてきたようである。
その真実を知って、レオが悔しそうに目をつぶった。
「…なんてことだ…!今のがたまごじゃなくて包丁だったら良かったのに…!」
『そうでヤンスね。だけどそれでイナゴが消えてしまうと物語に支障が出るから、やっぱやめるでヤンスよ』
「そっか…現実って難しく出来てるんだね」
『そうでヤンス。アタイらはこのようにして生きてるでヤンスよ』
「ち。今回は見逃してやるか」
「って、そんな理由で見逃されるのってすっげーいやなんだけど!」
たまごを顔面に浴びたイナゴは指を鳴らすことで汚れを跡形もなく消し去った。
その間に料理が出来上がったようで、ランが鍋を持って現れてきた。
場がより良い香りに包まれる。
「朝飯できたぞ」
鍋をテーブルの空いているスペースにおいて、ランはまた厨房に戻っていった。
まだ鍋があるようで、それを運ぶ作業をしているのだ。
ランがいなくなった隙を見計らってイナゴたちは首を伸ばす。
鍋の中を覗き込むと、味噌汁が波打っていた。
「あ、味噌汁だ」
「これ、ミソシルっていうのか?」
「そうだけど、何でカタカナ発音なの?」
『美味しそうでヤンスー。早く食べたいでヤンス』
また3人が騒がしくなったので、厨房からランが注意を促した。
「おいこら、行儀が悪いぞ。大人しく座ってるか手伝うかしろよ。さもないと包丁スラッシュを浴びせるぞ」
「わかった。イナゴ、そこで待機してて」
「してたまるか」
料理を運んでくるランに脅されて全員が席を立った。
人手が増えて、ようやくランの作業も楽になる。あっという間にテーブル上が夢の楽園に切り替わった。
素晴らしい料理の数々に全員がおおっと声を漏らした。
「すごいな。これほどまでに上手だとは思わなかった」
「いや、おれはまだまだだ。もっといい家政婦目指して頑張るぞ」
「男のくせして家政婦目指すなよ!」
『大丈夫でヤンス!ランならなれるでヤンスよ!』
「タンポポ!煽っちゃダメだろ!って、ほら乗り気だぞあいつ!」
「おれはタンポポのために良い家政婦になってみせる。ということで食べてくれ」
さり気なく上座に座って偉そうに話を流したランは、一人で「いたたきます」と呟いて箸に手を付けた。
しかしそれを見たイナゴがすぐにランを止めた。
「何一人で食おうとしてるんだよ。ここにはオレたちもいるんだぞ。みんなで挨拶するのが常識だろ?」
「…そうか、おれは一人じゃないのか」
イナゴに止められたことに対して一瞬不機嫌になったランも、意見を聞いてからは表情を崩した。
2ヶ月前まで一人で挨拶していた場だったけれど、今ここには仲間がいる。
そのことを思い知って、ランはこの上ない至福を味わった。
みんなで、挨拶をすると、なんだか気持ちが良い。
「「いただきます!」」
4人が手を合わせて挨拶することで、この場に暖かい空間が生まれた。
今まで一人で呟いていた挨拶が、今では仲間に交わす挨拶へ変わる。
気持ちの良い空間だ。これこそ家族の力というのか、人数が多いということは素晴らしい。
料理と気分を味わいながら、全員が目を細めて暖かい空間を過ごしていった。
気持ちの良い朝を迎えることで、この一日がとても良い日になるであろう。
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(05/09/03)